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日本史・世界史問題|社会・交易・独立を考える基礎 第2集

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問題 1

三内丸山遺跡では、多数の建物跡に加え、住居、墓、貯蔵場所、捨て場などを分けた跡が確認されている。また、周囲の海と森から年間を通じて食料を得られる環境にあった。これらを併せて読み取れることはどれか。

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通年利用できる食料資源と、住居・墓・貯蔵場所などの計画的な使い分けは、一定の場所で生活を続ける組織された集落を示す。これは三内丸山の特徴であり、後世の水田租税制度や騎馬遊牧の証拠ではない。

問題 2

日明貿易で用いられた勘合は、札に記された文字を、明側が保管する台帳「底簿」の文字と一致させる仕組みだった。この照合の主な目的はどれか。

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勘合は片割れを台帳と照合する割符で、明側が正式な遣明船かどうかを確認する認証手段だった。商品の値付けや航海予定の管理ではなく、正規の朝貢・貿易船を見分ける機能に要点がある。

問題 3

豊臣秀吉の刀狩令は、百姓に刀・弓・やり・鉄砲などを差し出させ、農具を持って耕作に専念するよう求めた。この政策が進めた統治上の変化として、最も適切なものはどれか。

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百姓から武器を取り上げて耕作に専念させる刀狩は、一揆を抑えるとともに、武士と百姓を区別する兵農分離を進めた。武士まで一律に非武装化した政策でも、農民軍を強化した政策でもない。

問題 4

江戸時代の年貢が主に米で納められ、収穫と結び付いていたのに対し、地租改正では土地所有者が地価を基準とする税を原則貨幣で納めた。この変更が政府と納税者に及ぼし得る影響の組合せとして、最も適切なものはどれか。

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地価を基準とする金納は、政府にとって収入を金額で把握しやすくし、財政基盤の安定に役立つ。一方、毎年の収穫量そのものを課税標準にしないため、不作でも税額が自動的に収穫に比例して下がる制度ではなかった。

問題 5

岩倉使節団の公式記録には欧米各地の制度や文化が記されている一方、派遣時には幕末に結んだ不平等条約の改正に向けた予備交渉も目的とされていた。この派遣を説明したものとして最も適切なのはどれか。

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岩倉使節団には、不平等条約改正の予備交渉という外交目的と、欧米各国の制度・文化を視察する調査目的があった。ただし使節団の派遣中に条約の全面改正が達成されたわけではない。

問題 6

ハンムラビ法典碑の本文には、「もし、ある行為があれば、しかじかの処置をする」という形の判断例が、家族・財産・交易・労働などについて多数記されている。この史料の性格を最も適切に説明したものはどれか。

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この碑は、条件と帰結を組み合わせた多数の判断例を集め、メソポタミアの支配者がどのように正義を実施したかを示す。比例的な処罰の考えは、被害を超える無制限の復讐を認めることとは異なる。

問題 7

1492年以後、ジャガイモや七面鳥がアメリカ大陸から他地域へ広がる一方、牛やオレンジ、天然痘などがアメリカ大陸へ持ち込まれた。この一連の変化を捉える説明として最も適切なものはどれか。

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コロンブス交換は、商品だけでなく人、動植物、文化、病気が東西両半球の間を移動した多面的な過程である。作物が旧世界へ渡る一方、家畜や感染症がアメリカへ入ったため、一方向の貿易とは説明できない。

問題 8

ハイチ革命はフランス植民地サン=ドマングの奴隷反乱として始まり、1804年には奴隷解放と自由国家ハイチの成立に至った。この帰結が当時の大西洋世界にもった意味として最も適切なものはどれか。

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奴隷反乱から解放と独立国家の成立に至ったことは、奴隷制と欧州の植民地支配を被支配者が覆し得ると示した。植民地体制を維持する内部改革ではなく、支配関係そのものを変えた点が重要である。

問題 9

インドでは第一次世界大戦後、ガンディーらが非暴力の反英運動を展開した。第二次世界大戦後には英国政府がインド国民会議とムスリム連盟の代表者らと交渉し、1947年にインドとパキスタンが独立した。この経過を説明したものとして最も適切なのはどれか。

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インド独立は、長期の非暴力抗議による民族運動の拡大と、第二次大戦後の英国政府・主要政党間の交渉を経た過程として捉えられる。会議派とムスリム連盟の対立もあり、インドとパキスタンに分かれて独立した。

問題 10

ガーナは1957年に独立し、翌年には独立国や各地の反植民地運動を集める会議を開催した。これらの会議は、後のアフリカ統一機構成立の下地にもなった。この事実から読み取れるガーナの役割はどれか。

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独立直後に各国・各運動を集め、後の地域機構につながる連携を促したことから、ガーナはアフリカ脱植民地化の触媒と支援拠点になったと分かる。独立を自国だけの問題として閉じたのではない。